飯田とう隠老師(飯田欓隠老師),只管打坐で真の見性す (悟り) 40歳の時


東大医学部卒で居士身で修行、40歳に只管打坐にて見性。60歳で出家。
飯田欓隠老師はそれまで知られることのなかった真の只管打座を復活させ、
それはさらに井上義衍老師とその門下(原田雪渓老師、井上哲玄老師,井上義寛老師,井上貫道老師,(年齢順)など)によって引き継がれ
門下に見性体験者を続出させて大輪の華をひらくことになる かくして曹洞宗が蘇ったのである

飯田欓隠老師略歴


南陽軒老師 大阪高槻少林窟道場開山。

文久3年(1863)1歳
4月22日、山口県花岡に片野與兵衛の五男として出生
東京大学医学部を次席(2位)の成績で卒業

明治19年 24歳
東京大学医学部付属病院医師として奉職中、当時流行のコレラ病の治療に従事する。死亡率高く、人生の無常を感じる
偶々広島仏通寺・香川寛量老師に東京駒込・龍光寺に会う
職を辞して仏通寺専門道場で修行

飯田家の養子となる。
昼夜寝食を忘れて猛修行の結果、12月臘八接心の曉天に、換骨脱体の見性
(臘八接心とは12月1日より8日まで不眠不休で行われる接心)
香川寛量老師の印可証明を得る。帰郷して養父飯田氏の病を看護する。


明治22年 27歳
東京・道林寺に南天棒中原鄧州老師を訪ね、山上山有りを了知し、師資の礼をとる(師=師匠、資=弟子)

明治26年 31歳
埼玉県にて医院を開業、結婚

明治30年 35歳
曹洞宗西有穆山禅師に相見 禅師に就く また曹洞宗の宗風を探る 

明治31年 36歳
南天棒老師の印可証明を受く
然るに、なお、満足せず教相(仏教の法理)を調べ、語録を渉猟する
飯田欓隠、ひそかに只管打坐を修す

明治35年 40歳
いよいよ苦修錬行する。
岐阜県・虎渓山にて独接心をして、忽然として、天地と融合し、古人我をあざむかざるの大真理を徹見す。
飯田欓隠、痛快に大悟大徹して、従前の悪智悪覚をすべて吐却する。


爾来、公案が修行に役に立たないと痛切に感じ、
「南天棒、仏法夢にだも知らず」
との大抱負のもとに、公案の扱い方に弊害ありとして、
これを打破すべく、居士身で(出家しないで)修行方法の誤りを是正し、
昼も夜も各地の禅会を巡錫す。
[南天棒中原鄧州老師と言えば、宗匠検定法という,臨済宗のお師家さんの見地が本物かどうかを見定める検定方法を作って
全国の師家を調べて回ったほどの力量のある老師だったそういう南天棒老師の境地を否定するような悟りを開かれたのである
というより、南天棒は見性していなかったのである]

明治38年 43歳 日露戦争中、無料診療に従事

昭和5年 54歳
中館長風、岡田自適の両居士より出家をすすめらる

昭和6年4月、55歳、西宮市西浜町に転居するとともに医業を休止し、居士身にて布教に従事する
大阪、東京、長野など多くの禅会を指導。
北野元峰禅師に親灸する。

昭和7年56歳
安芸、禅林、敬峰和尚に嗣法。
遂翁-春叢-文常―敬峰―文敬(トウ隠)

※敬峰和尚は、阿波(徳島)の鬼文常の印可



昭和11年 60歳
6月、終生私淑傾倒して止まなかった趙州老古仏(120歳まで生きた中国唐代の禅僧)にあやかり、
また消えなんとする曹洞宗を復古させるため、飯田トウ隠、福井県小浜発心寺・導師原田祖岳老師について出家
それまで臨済宗で修行するも、曹洞宗で出家せるものなり

昭和12年 61歳
4月より7月まで石川県大聖寺、全昌寺の禅会に後堂として助化

14年 63歳 4月、東京赤坂青山の龍谷寺に於いて立職(曹洞宗の場合住職するには首座として立職が必要)

昭和2年 65歳 3月より東京本郷麟祥院に於ける大石大典居士を中心にした興禅護国会の師家として出講 碧巌録開講、来聴者数百人に及ぶ

5月、飯田とういん老師、曹洞宗師家認可さる 大阪池田・大広寺専門僧堂の施設を本願として朝参暮請を受ける(朝参暮請とは朝に夕に独参を受けること)

昭和3年 66歳
広島呉市・神応院に於ける夏期参禅会に、講師として招せられ、五位を講ず この時浜松・井上義衍老師が前座を務める
その時より、義衍老師、高槻少林窟の飯田トウ隠老師に参ず。欓隠老師は公案の頻出を戒しめ、逐一追及す

5年 68歳
飯田欓隠老師、東京真風会、老松会、慧照会、興禅護国会、大阪達磨会、兵庫、池田、長野県貞祥寺、
盛岡報恩寺、秋田市満願寺、花巻宗青寺等を巡錫す

昭和6年 69歳
10月 大阪府高槻市古曽部町に少林窟道場落成開単式行われる

昭和7年 70歳
別府と広島忠海海蔵寺に転地療養、全癒するに至らず
また西宮自宅にて静養


昭和10年 73歳
6月、法嗣・春翁欓文老師遷化(伊牟田欓文老師は長年女学校の教師をして居士身で修行、開悟 飯田トウ隠老師の法を嗣ぐ) 

昭和12年 75歳
9月20日西宮の自宅にて入寂

まさに、職業こそ医師であったが、これと思う師について引っ越しをし、
修行を続け菩提を究盡(ぐうじん)し、宣揚するの生涯であった


飯田欓隠老師の逸話

あまり知られていないが慈恵医科大学の創始者なども飯田欓隠老師の会下で、各界の名士も参禅している。

発心寺で出家得度した時は、すでに60歳で、40歳で身心脱落し、修行も終えられ、
すでに禅会も各地でやり、高い見識があることで有名であったため、
受業師の原田祖岳老師も一目置いていたという。

発心寺の前に庵を結んでそこに住み、時には魚を焼いて食っていたらしい。
ある時などは、原田祖岳老師が訪問されるというので、慌ててこたつの下に焼き魚を隠して事なきを得たことがあった。
原田老師はそんなことはわかっていたし、とう隠老師はバレることは百も承知だったのであるが、
寺では「不許葷酒入山門」だから、お互いやってみただけ、遊んでいたのである。

とう隠老師は、映画が大好きで、よく発心寺を抜けだしては映画館に行っていた。

独参を受ける時は、かなり厳しく、よく棒(竹箆(しっぺい))を振われたようである。
高槻の少林窟道場で独参を受けるときなどは、喚鐘を鳴らしてから、長いすのこの廊下を渡らねばならないが、
その足音を聴いて、鈴(れい)が鳴る(独参にまだ来ないのに、独参終了の鈴が鳴るということ、
そんな歩き方ではちゃんと功夫していないぞと言われている)が往々にしてあったらしい。


◯竹箆(しっぺい) 老師(師家しけ)が独参(師家と学人との一対一の問答商量、個人指導)の時に自分の前に置いている棒のこと
如意(にょい)とも言う

◯喚鐘(かんしょう)独参(どくさん)に行く合図として鳴らす小さい鐘 二打して、「行きます」という意思を表示する
独参の始まりや終わりは、係りの者が連打をする。最初はゆっくり、徐々に速く連打される。

◯鈴(れい) 師家が自分の横に置いて合図に使う これが鳴れば、今独参している者は「去れ」、独参待ちの者には「来たれ」
という意味になる。この鈴が鳴れば、独参中の者はいくら言いたいこと、聞きたいことがあっても、すみやかに中止してその場から立ち去らないといけない。
ただし、師家に対して三拝の礼は尽くす
時々師家に対する三拝が、宗教ぽくて嫌だという学人がいるが、それは自我を握っているからである
これは個人崇拝や新興宗教にあるような教祖崇拝とは何の関係もない
ある老師は言った「誰が誰に三拝しているかがわかるまで独参してください」


子供は10人、子孫にはインテリ、社会的地位の高い人が多い。


少林窟道場―開山 飯田トウ隠老師

大阪高槻の少林窟道場  
昭和6年当時の禅堂がそのまま保存されている
禅堂と衆寮(参禅者の居場所・台所・東司(とうす・トイレの事))と方丈(隠寮、老師の居場所・台所・東司つき)とがコの字型になっている
しなしながら、維持管理の費用を捻出する組織もないので、隠寮などは雨漏りがするようになっている

建物は常時開放されており、求道心のある人はそこで自由に坐禅ができる
飯田とう隠老師を尊敬する人のうち、ここで剃髪する人が今でもしばしばあるという
原田雪渓老師もかつてここで剃髪して、小浜市の発心寺に行き、原田雪水老師の弟子になられたという
(全部剃らずに頭頂部だけ髪を残しておき、得度のお師匠さんに最後を剃髪の儀式で剃ってもらうもの)

現在の大阪府高槻市の少林窟道場には常駐の指導者はない
飯田欓隠老師(旧姓・片野)の孫にあたる京都大学教授の片野林太郎氏が管理されていて(境内に隣接するところに住居)
管理維持は片野林太郎博士の私費でなされている
毎月第四日曜日は、片野博士主催で坐禅会「達磨会」が開催されている

また、芦屋市に財団法人飯田欓隠老師顕彰会があり、市内にその会の所有する坐禅のできる居宅がある(子孫の近藤氏の所有)




飯田欓隠老師の著書


13年 62歳 『無門関鑚燧』刊行
14年 63歳 『参同契・宝鏡三昧講話』刊行
昭和3年 66歳
『槐安国語提唱録』全七巻完結
昭和7年 70歳 『碧巌集提唱録』『普勧坐禅儀一莖草』『趙州録開莚普説』
昭和9年『参禅漫録』刊行
『碧巖集提唱録』(昭和七年 琳琅閣 りんろうかく 03-3811-6555) 7000円
『禅交響楽』
『槐安国語提唱録―大燈国師語抄 白隠著語並評唱』
(1954年)など、著書多数




伊牟田トウ文(欓文)老師 飯田欓隠老師の印可、飯田とう隠老師の法燈


飯田トウ隠老師印可のなぞの禅匠・伊牟田トウ文老師(いむたとうぶん)
この老師についてはあまり残されているものがない
女学校の教師で、教師らしい蒲柳の体質で、撫で肩で顔も痩せている
飯田欓隠老師とは正反対の印象がある
伊牟田欓文老師は、女学校の教師をしながら飯田欓隠老師について参禅
老師が病に倒れられこともあり、大法のために出家
諱は欓(トウ)文、道号は春翁、よって春翁欓文。トウは飯田欓隠老師の欓(トウ)と同じく木篇に党の旧字黨つまり欓

しかし50代にて師飯田老師より先に遷化
残念ながら接化の時節が短すぎた

井上義衍ぎえん老師が住職された浜松・龍泉寺に、飯田欓隠老師が春翁欓文老師に書いた印可証明の写しが保存されている




著書『春翁欓文語録』伊牟田欓文著 黒和綴・定価三千円




飯田欓隠老師、伊牟田欓文老師との出会い by 井上義衍老師

それから後に、今度は飯田トウ隠老師が原田老師と代って禅会、講習にみえた。
その時に初めて飯田老師に参じた

自分の大体の樣子を話して、「どうじゃ!!」いうような話で、一応話を終わって、
その足で呉の「神應院」へ、夏期講習へ一緒に行ったのです。

老師も私も講師だものだから、一部屋へ一緒に坐っておって、こんな部屋ですわね。
余り広くないこんな部屋へ二人こう坐っていて、神應院さんが朝参に見えると、
心経の話が出たりすると、老師よりも私の方が取り上げて、それに対して応対しながらやっていると、
老師は黙って知らん顔して、じーっと聞いていて、何も言わん。

だからあの時分に、やはり私どもの若い勢いの欠陥、あとからの欠陥のあることは知っておったのね。
今になってみるとそうです。

だけれども、知らん顔して何も言わない。それで一緒に講義して、私はあの時「五位」の話をした。
それはもうそこらにあるありあわせのもので、片っ端からズケズケズケズケ、
今のありのまんまの話ばっかりをするものじゃから、それには何か非常に感じられたとみえる。

時間が来ても私が中々やめんもんだから、老師は次の会場へ行かにゃならん。
そういうようなことで、そこを行ったり来たり、行ったり来たりしておられるのが、今でも目に付くくらいだ。
「ああ、これは時間が来たんだな」とやめたりした。

そんな調子で、飯田老師ともやはりその時分に、こっちに欠陥は持っておっても、
根底におけるものがちゃんとしておるから、何ともないのね。
「なに、同じじゃないか。うまいこと言うか言わんかだけじゃ」いうような気がしておるものじゃからです。
また平気で出来たのね。不思議なものですわ。

そういうようなことで始まって、後に飯田欓隠老師が兄の寺(広島の勝運寺)へ、病気になられてから静養に来られるようになった。
何回かそこでよく会っちゃ、禅会へ行く途中でも、広島の国泰寺に出て行く前に、そっちへ寄ったりすると、
「どうだ、公案なんか余り使うじゃないぞ」と。「公案要らんですわ 一つあればたくさんです」とよく話しながら行った
そんなことで飯田老師を知って、相手になっていたくらいです。

その後は、亡くなられる前まで、高槻の少林窟道場で摂心があると、ここからよくそこへ行った。
行っては参禅して帰ってくる。
そのあとあそこへ「来んか」いうて言われたことがあるが、行けれんものじゃから、そんな調子で参禅し、
そっちに居られん時には、よく自宅の方へ行った。最後あたりでしょうね。

自宅へ参禅に行ったが、もう寝ておられて、尿瓶を頭の所へ持って来ておられるくらいです。
それで参禅をすると、もう立ち上がってきてね、頬げたを両手で両方からぶん殴るのね。何も言わずに。

それで顔を見ている。私だって別に問題はないものだから、知らん顔をしていると、
「ウン、そうか」言うちゃ、やっておられた。

それからそのあと、伊牟田トウ文老師いう方がお弟子で、これ本当にトウ隠老師の印可を得た人でね、
その方が居って、そこへもよく参禅した。
トウ隠老師が出てこられんようになってから、トウ文老師も私の見性の様子なんかも証明して、
「よしッ」言うておられたけれども、
欓隠老師よりも先に亡くなってしまった。


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