原田祖岳老師 見性・悟りを忘れた曹洞宗大本山に警告をした立役者



原田祖岳―臨済宗でも修行して見性体験を得る

原田祖岳老師は、曹洞宗の僧であったが、みずから臨済宗の修行に飛び込み、見性(悟り)を得る
「見性は道元禅師がしているので、我々は見性する必要はない、坐禅している姿がそのまま仏である」
と主張する曹洞宗本山や宗門の大学研究者に当時真っ向から対抗した僧侶
発心寺専門道場の開単者

原田祖岳老師略伝

1871年、福井県の小浜市生れ、7歳の時に曹洞宗の寺院に小僧として入り、高校生まで過ごす
20歳の時に美濃加茂市伊深の臨済宗・正眼寺僧堂で修行し、1年半から2年で見性体験を得る
臨済宗では雲霧軒河野霧海(大義霧海)、高源室豊田毒湛に師事、曹洞宗、臨済宗の双方の高僧を歴参
1901年曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業

1911年から1923年まで駒澤大学教授
1961年 遷化


原田祖岳老師の禅指導の特徴

非常に厳格な人物で、生涯独身
発心寺(小浜市),地済院、安国寺,報恩寺(盛岡市),智源寺(宮津市)などの住職を務め、
90歳まで各寺で接心を指導し、発心寺では7日間の接心を年に6回行う

臨済の公案を採り入れて指導し、初關として無字の提撕をさせた
仏教の本来の眼目である見性を重要視し、時として大本山永平寺に対抗した
たとえば、道元禅師は独参をしていた、永平寺に道元禅師当時の「独参」の単牌があるはずだと主張するも永平寺は無回答だった


原田祖岳老師の弟子

ここ一般に弟子という場合、二通りの意味がある。注意を要する点である。
一つは、出家得度(または在家得度)を受けた人。BがA和尚から得度を受けた場合、BはAの弟子である。
AはBの受業師である(厳密には得度の師と受業師とは違う場合がある。特に昔の場合)
また寺院を嗣ぐために、転師をする場合、その師の弟子となる。

もう一つは、法を嗣いだ弟子がある。
だれだれ老師に長年参禅しようが、法を継がなければ、または、印可証明を受けなければ、
その人はその老師の弟子とは言えず、だれだれ老師の会下(えか)と言うのみである。


原田祖岳老師の法を嗣いだ弟子には、安谷白雲老師(故人)、原田雪水老師(故人)、原田湛玄老師(仏国寺住職)などがいる

安谷白雲老師は後に曹洞宗と決別し、三宝教団として独立した。
山田耕雲老師は安谷白雲の法嗣
安谷白雲老師の法系からは、見性でない体験を見性として安売りする
(見性希望者をグルグルと目を回させて突然止めて「ほら、見性しただろう!」とやった)ような者(石黒法龍(故人))も出現したり、
またそれほどでもない体験を容易に見性として認め、道場(発心寺ではない)に名前を貼りだすような風潮までなり堕落したこともある

原田祖岳老師の法系

原田祖岳老師の後継は原田雪水老師、原田雪渓老師と発心寺の師家は変わったが、
皆、住職のあとを継ぐために養子縁組をして原田姓を名乗っているだけで血縁ではない

原田雪渓老師は原田祖岳系だと思う人たちがいるが、
雪渓老師は井上義衍系であり、原田祖岳系ではない

飯田欓隠老師も発心寺で得度 よって本師(受業師)が原田祖岳ということであるが、
飯田とう隠老師は原田祖岳系ではない

当然井上義衍老師も原田祖岳系ではない

しかしながら、曹洞宗では唯一悟りを標榜する道場は原田祖岳老師の発心寺のみであったので、
義衍老師も井上哲玄老師・井上義寛老師・長谷川文丈老師・井上貫道老師など自分の弟子は発心寺に送っている
彼らも原田祖岳老師系ではない

(井上義衍老師は原田祖岳老師からも印可を受けているが、参禅されたことはない 
古来より師家が僧に出会って問答し(会話をし)その場で印可証明を渡すことがある)



晩年の原田祖岳系の指導では、初関を通すのが大変甘くなってしまい、接心毎に大量の「見性者」が続出するようになったようである。

澤木興道老師などは、逆に悟りを経験しない派に入る  内山興正、ネルケ無方の方々も同じように悟りを体験したことのない人々の流派


原田祖岳老師~原田雪渓老師と続いた発心寺専門道場の現状

発心寺専門僧堂の現状

原田雪渓老師が後継ぎを発心寺に残さなかったので
見性を標榜していた発心寺の道場はどうなるのであろうか

現在、真の見性者は井上義衍老師系統にしかいなくなっているが、
そこから発心寺専門道場の師家に出るつもりの人はいないように思われる。

原田祖岳老師から始まった「曹洞宗で唯一悟りを標榜する専門道場」もこのまま消えるのであろうか。
(もちろん宗門としては、僧侶資格も与えないといけないので、誰かを師家にすえて發心寺専門道場としては継続する)

古来より、やはり本物は地方に隠れるという


臨済宗の専門僧堂の現状

一方、臨済宗の道場では、公案体系(1,700則の公案を透る)を10年くらいかかって終えて印可証明を受けるだけで、
見性する人は地を払っていなくなってしまっている

以前は公案体系を終えても、覇参(参禅終了)、覇参底(はさんてい)=「公案を終わった人」というだけであったが、
現在では、臨済宗でも見性体験を全くうんぬんしなくなったので、公案を終わると見性がなくても印可証明をもらい、
師家・師家分上といい、普通の和尚や一般人からは「老師」「御師家様」と言われて尊敬され、宗門内でも並みの和尚とは違う別格の待遇を受けるので、
道心あって出家したものもせっかく長年道場で修行したからには、老師にならないと報われないと、師家の称号が利欲の道具と化しているしまっている。
師家・師家分上という「資格」を得ると、地位と名誉と高収入が得られるからである。

在家でも公案を終わると師家・師家分上となるが、臨済宗の派によってはそれを認めない。

師家・老師という人に会ったらどんどんと質問をして突っ込んでいただきたい。

また曹洞宗では老師という称号は乱発されてしまい、本来の意義が失われているようである。



臨済宗の公案禅・原田祖岳系曹洞禅の現状

原田祖岳老師の法系を受け継ぐ三宝教団も、見性体験を得させるための修行ではなく、公案体系を進めるだけの修行になってしまっているようである。

最初に初関(初關)を通すために、無字などを提撕させ、少しの時間が経過すると、見地了々ではないのにも拘らず、
初關を通ったようにして、「見地をさらにはっきりさせるために」と言ってさらに公案体系を進めさせている。


これは、臨済宗の明治以降の指導方法と同じであるが、果たして、それで見地がはっきりするのだろうか?
そもそも初關ではっきりしていないものが、徐々に深まるのか?
六祖慧能大師は何と言われたのか? 

白隠禅師はそういう指導をしていない。
江戸時代に臨済宗を再興させたいわれる白隠禅師は、現在のような公案体系を透過させるような指導方法ではなかった。

道元禅師や井上義衍老師の指導方法はこれらとはまったく異なる。
この両人は、中国の唐代・宋代のように明快単純である。

公案体系を用いて修行すること、公案を透過することが修行の眼目だとすること、ここに臨済宗の衰え、原田祖岳系曹洞宗の衰微の原因があるとしか思えない。





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