北野元峰禅師(1842-1933)世壽92歳

27歳の時、豁然大悟した曹洞宗の宗侶
この方の生涯を知ると、曹洞宗でもちゃんと悟りを開いていた僧侶があったことが証明されます。
それを指導する明眼の方(名僧)もいたことがわかります。
而も大本山ではなくて地方に明眼の和尚はいたのです。

つまり、今の大方の曹洞宗宗門と違って、悟りがないと始まらないと
曹洞宗でも明治の頃までは考えていたわけです。

悟りがないとどうして仏教(仏=悟った人budda の教え)と言えましょうか。
それがないと一般の新興宗教と同じなのです。
道元禅師を崇めるだけでは、道元宗であって、仏教ではあり得ません。

坐禅している姿がそのまま悟りであるというような教えは、道元禅師に反することを教えていることになります。


北野元峰禅師は、飯田欓隠老師井上義衍老師が尊敬された越格の人物
二人共悟りを開いている曹洞宗の明眼の宗師


北野元峰禅師の生涯

1842年福井県に10人兄弟の一番下に生る、母その時47歳
上の姉二人が尼僧だった 上の姉が男の子が生れて出家することを祈願していたという
同郷出身の和尚を頼りに、姉二人に、9歳にて上州(群馬県)最興寺の哲量和尚の下に連れて行かれる
しかし、元峰は、哲量和尚が年寄りだったので、「こんな先の短い和尚は嫌だ」と言って姉を驚かす
そこで、和尚の弟子の西方院碩童和尚を紹介せらる

碩童和尚の下、10歳で得度
いたずらが激しく師の手に負えず、16歳にて赤塚松月院の魯衷和尚に預けらる
当時松月院には常時25人の雲衲(うんのう・雲水=修行僧のこと)が逗留

18歳、魯衷和尚、江戸の青松寺の昇住に従い、江戸に伴う
22歳青松寺魯衷和尚冬安居、首座に就く

魯衷和尚の懇書に従いて、碩童和尚から魯衷和尚に転師
魯衷和尚の懇書によれば、面山下の法系も頗る人物が払底して秋風寂寞の観があるから、
何とかして之を復興せねばならぬが、それについては元峰ならば必ず之を成すであろうから、
どうか面山下復興の為に、元峰を下さらぬかということであった


1868年27歳、江州(滋賀県)彦根の清凉寺の清拙和尚の下で安居
1868年明治元年の冬、臘八大接心の第二日12月2日の夜、豁然として大事を
了畢し、即時に清拙和尚(後の鴻雪爪)の室に入って証明を受ける

32歳北野元峰、東京青松寺四十世住職となる 次いで小講義に補せられる

1897年(明治30年)56歳ごろ
玄峰老師の教線は継続して、川崎、高崎、横浜等の地方を始め市内の家庭説法学校巡講せらるは、毎月半ば以上に達す
またどんなに富豪や高貴な家から法事を頼まれてもすでに入っている説法時間を変更されることはなかった
法事の方を日延されたのである

ある人が東京陸軍衛戌病院に月一回づつの説法を願ったところ、17年間の間一度も日時を間違ったことはなかったという
以て北野元峰師(禅師)が如何に爲人度生のを願っておられたかがわかる
爲人説法の前には法事や檀用は二の次だったのである

またこの頃ある人が、東京の土地を売却して得た現金の一部である5,000円(今の約12,000,000円)を
北野元峰老師にお布施したいと申し出たところ、老師は
「今は特にお金が必要なわけではないので、お気持ちだけいただいときます」と言って辞退された


64歳(明治38年(1905))1月16日
佐藤鐵額和尚を青松寺の後住とし、自分は、隠寮を新築して住す

この頃、修行時代の井上義衍老師が参禅している。
元峰老師は痔を患っておられ、「若い時には無理をして岩の上に坐禅したりしたものだから、こんな痔になってしもうた。
そういう修行をしなくても悟れるので、決して身体を痛めるような無茶な坐禅をしてはならぬぞ」と井上義衍老師に言われたという


79歳 大正9年(1920)
北野元峰、永平寺六十七世貫首に当選す
同年11月18日 曹洞宗管長に就任す
同年11月25日 北野元峰禅師、「圓證明修禪師」の勅號を賜う

以後、「承陽大師御略傳」(承陽大師とは道元禅師のこと)を出版し、また永平寺の堂宇諸閣を修復整備す


86歳
本山、大庫院、光明蔵、傘松閣起工式を挙げる。

87歳昭和3年(1928)
二祖650回大遠忌を記念し出版される村上素道編輯兼発行「永平二祖孤雲懐弉禪師」に北野元峰禅師巻頭題字を寄せる。

88歳昭和4年7月15日
二祖650回大遠忌を記念し、本山蔵版正法眼藏全二十一冊を上梓、頒布する


昭和5年(1930)1月15日
大遠忌工事現況
一、大庫院建設工事 完成
一、傘松閣工事 完成
内部全国知名画伯揮毫天井は2月中旬完了の予定
一、大光明蔵及び監院寮 旧臘完成
一、諸回廊 旧臘建方終了、本年2月完成予定
一、水道工事 第一期計画工事完了
一、宝物館 12月工事着手、2月完成の予定
一、勅使門筋塀屋根改修及び勅使門前歩道改修工事、旧臘完成
一、舎利殿屋根改修 12月中旬着手、本年1月完成の予定
一、山門屋根瓦替工事 完成
一、総受付 完成  (以上)


89歳 昭和5年(1930)2月25日
「永平寺二祖 孤雲懐弉禪師」小冊子、上野舜頴編輯にて曹洞宗大本山永平寺より発行


5月1日
永平二祖六百五十回大遠諱法会を開始す
5月11日正当法要厳修,5月14日大遠諱を終了す


この大遠忌を迎えるにあたって新築あるいは大改築されたのは大庫院、大光明蔵、傘松閣の外、
祠堂殿、総受付(副寺寮)、聖宝館、宝來閣などがあり、回廊等を含めると正に伽藍を一新する大工事であった

昭和8年(1933)10月19日 
北野元峰禅師、遷化す。世壽92歳
22日、永平寺東京出張所にて密葬


北野元峰禅師の著書

永平寺貫首勅賜圓證明修禪師「禪道法話集」 細川道契編輯 永平寺出張所・発行(1922 大正13年)


北野元峰老師の逸話

福井県大野の山村に生れた少年は、父が亡くなったので
貧しい家計を助けるために母の手で永平寺の末寺の小僧として入寺させられた。

家を出る日、母は村はずれまで少年を見送りにきた。

自分に甲斐性がないために子供を口べらしのために出さねばならないと思えば、母は胸がつまってものが言えない。

「お母さん、行ってきます」
と少年が言った。なにか励ましの言葉を言わねばと思っても、言葉が見出せない。

そんな母に少年が言った。
「お母さん、必ず立派な坊さんになって帰ってくるからね」

この時、母は初めて口を開いた。
「立派なお坊さんになったら別に帰ってこなくていいよ。
誰でもお前の世話をしてくれる。
しかしお前が大きな失敗をして誰からも相手にされなくなったり、
また病気をしたりしてお寺に居られぬようになったら、いつでも帰っておいで。
母ちゃんは、いつでも待っているからな」

この少年は師匠から(北野)元峰*という名を与えられ、悟りを開いて真のお坊さんになったのです。


* 本当は、諱は大夤(だいえん)

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